平井顕斎
1802-1856 (享和2-安政3) 年
1802-1856 (享和2-安政3) 年
碧山墨趣図
1853(嘉永6) 年
紙本墨画淡彩、軸装、1幅
175.3×94.0 ㎝
1853(嘉永6) 年
紙本墨画淡彩、軸装、1幅
175.3×94.0 ㎝
顕斎は遠州川崎(現在の榛原郡榛原町)出身、江戸に出て谷文晁に師事し、後に渡辺崋山の門に入る。
顕斎の作品としては山水画が比較的多く他に人物画も得意とした。特に山水画では洋画の技法を取り入れ写実的な表現に特色がある。師の崋山の作品の模写も多く残している。
顕斎は山水画をもっとも得意とした画家であった。今日残された作品も山水風景を描いたものが多い。
この図には画面左上に「観高書尚碧山、得此墨趣、癸丑黄鐘三谷忱」とある画面には「書尚」となっているが右に墨点があり、正しくは高尚書のことで中国・元時代の文人画家である高克恭である。高克恭の描いた碧山(青く聳える山)を描く山水画を見てこの作品を描いたとある。水墨によって遺憾なく山水の大きさと迫力を表現したものである。
癸丑黄鐘とは嘉永6年(1853)陰暦11月のことで、52歳の作品である。
この作品は、南画に特有の水墨山水画で静かな山水への憧れを表現したものである。
中国の有名な詩人・李白に「余に問う何の意ぞ碧山に棲むこと」(山中問答)という詩がある。この作品は、その意を酌んで絵画化したものかもしれない。