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「思えば30年も前、昔々の話になります。」


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私がこの道を選んだ分岐?それは二段階回あったと思います。一段回目は、アートをずっと続けていきたいという気持ちになったこと。二段階目は、専門を追究できるのと同時に後輩たちに専門を伝える教育の現場にたずさわりたいという意志の芽生えです。
一段階回目、特段得意とは思っていなかった絵画作品が、小学校五年生の時、図画工作が専門の担任の先生の推挙があり、展覧会で賞をもらいました。この出来事は間違いなく、小さな自信の芽生だったと思います。基本的には体を動かすことが好きだったので、運動部に所属して部活を謳歌していましたが、一方ではお小遣いを貯めて画材を買って、家にあった画集や絵画技法の本を参考に自分で絵画制作を続けていました。大人に混じっての展覧会に自主的に出品したりしていました。家には父親が蒐集した骨董品がたくさんあって、不思議な形や技を眺めるのも好きでした。将来の仕事などをイメージせずに、芸術系か運動系か迷いまいたが、そこでは、小さな自信が少し大きくなり、もっと続けてみたいという思いが勝り、芸術系に進学しました。

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二段回目、学生から大学教員になりたいという芽生です。学生時代は研究と併せて多くのアルバイトをしていまいたが、当時とても面白く長く続いたのが看板屋さんでした。絵の具と筆で、巨大な看板を描き様々な現場に設置しました。学生生活は金銭的な余裕がないなりに、根拠のないバイタリティと工夫で充実した生活を送り、この時一生学生でいたいと思ったほど充実していました。大学、大学院での芸術活動は、生活と密接に関係するようになり、身体に染み付いて現在まで恐らくこれからも一番大切にしたいと思う部分が形成されました。芸術系の大学に在籍していた私の中では、社会人像というものの形成は正直全くできませんでした。ところが目の前にいる大学教員をよくよく観察してみると、研究を継続して行きつつ、社会に貢献している職種であることに気づきました。私は自分の研究や将来を考えた時、まさに理想の職種ではないかと感じました。その職とはどういうものなのか、様々な角度から調べました。幸いに縁あって常勤職についたのが二十九歳の時でした。そこから二十七年間大学教員を勤めてきました。
誰もが身近にもある経験だと思います。ほんのちょっとした出来事が分岐点になること、決して大きな炎ではありませんが、小さな灯火の点灯の気づきです。自分が持って生まれた一回しかない人生です。自分の持っている小さな灯火に気がつく心とそれを絶やさず継続する日々の営みを大切にして欲しいと思います。                      

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A 大きな油絵を描くようになる、中日展出品。(20代初め頃)
B 全国公募神奈川県美術展、絵画部門最高賞「特選」を受賞したミクストメディア
C 全国公募神奈川県美術展、絵画部門最高賞「特選」を受賞したミクストメディア。(20代中頃)
D 枕崎ビエンナーレ風の芸術展、最高賞「大賞」を受賞したミクストメディア。(20代終り頃)
E 壁(絵画)から解放されたいと思いが大きくなる。巨大な絵画によるインスタレーション。(30代初め頃)
F この後のコンセプトを決定づけた作品。自らの足元を大切に、1人でプロジェクトを考案して実行したフィールドインスタレーション。
指導生にサポートしてもらうことが多くなっていく。(30代中頃)
G この頃から「目の前にないもは、記憶からなくなる」という思いが強くなる。(30代終り頃)
H 1800本のイミテーションフラワーによるインスタレーション。(40代初め頃)
I 日本からドイツに「水」を運搬し、現地で気化させたインスタレーション。(40代中頃)
J•K•L•M•N 地域資産の有用性を見出すアートプロジェクトを立ち上げ、精度の高いサイトスペシフィックなインスタレーション。指導生とともにプロジェクトを運用し始める(40代後半)
O•P 広葉樹を焼成させて造った灰の粉を「目の前からなくなるもの」の象徴と捉え、自然の中の生物としての人間性と向かい合っている。(50代から現在)

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